3.三瀧寺(三滝観音)
JR三滝駅から南へ少し下がり、右手の坂を上がると桜並木があります。この道に沿う小さな流れは水量は少ないけれど都市近郊には珍しく清らかな水が流れています。この坂を上がりつめると多くの人々に”三滝の観音さん”として親しまれている三瀧寺(真言宗)にたどり着きます。
三瀧寺の境内には、その由来となっている三つの滝の瀬音が響き、また深山幽谷の趣きも深く人々の心をやわらげ、憩いの場となっています。(初夏の青もみじ、秋の紅葉は殊に美しい)
旧参道に一番観音があり、境内に入り本堂までの参道に沿って三十三体の摩崖仏観音像や多くの小さな石仏、そして原爆慰霊碑にまじって著名人の詩・和歌・俳句の文学碑も訪れる人々に安らかな情景をあたえています。
三つの滝
かつて“雌瀧”“雄瀧”“駒が瀧”という名がついていましたが、今は“幽明(ゆうみょう)の滝”“梵音(ぼんおん)の滝”“駒が滝”と呼ばれています。中でも雄大なのは“梵音の滝”で茶室の前の約50メートルの絶壁から落ちてくる滝の様は誠に見事です。多宝塔(県重要文化財)
境内に入り参道の右手石段を登ると、松の緑の中に朱塗りの姿で美しく建っています。原爆犠牲者の供養のため昭和26年(1951年)広島に移築されました。この塔はもともと和歌山の広八幡神社の境内に建てられていたものです。塔の心柱には大永6年(1526年)に建立されたと記されており、室町時代の創建です。三間四面、本瓦葺二層の多宝塔は和様と唐様の折衷様式で、蟇股(かえるまた)や下層の柱、上層の亀腹(かめはら)など室町期の建築様式をとどめる美しい塔です。
またこの塔に安置されている「木造阿弥陀如来像」(国重要文化財)は藤原時代の定朝(じょうちょう)様式※の作風がよくあらわれています。
この仏像は大阪河内長野市の観心寺から移されたものです。像の胎内銘には「仁平4年(1154年)11月河内国日野村の人々が観心寺に寄進した」とあります。檜材を使った寄木造りで漆に金箔をおく仕上げで、長い年月を経た今日でも金箔がおだやかな輝きを見せています。
※定朝は平安時代中期の仏師で、その優美な様式は長く日本の仏像彫刻の規範とされ寄木造りの技法を大成しました。天喜元年(1053年)に制作した阿弥陀如来像が平等院鳳凰堂に残っています。
(出典:大辞林)
想親観音堂
「想親」と言う名前は江戸時代に唄われた数え歌『廣島心願成就八景』に出てくる言葉からきており、亡くなった親を偲んでお札を納める庶民信仰がその根底にあると言われています。石仏三体が祀られており、中央の十一面観音像が最も古い石仏です。最初の観音堂は江戸時代に建てられました。現在の観音堂は明治初期に再建され、現在でも多くの人たちがお参りをしています。

本堂
参道沿いの自然のたたずまいを心にとめながら最後の石段を登りつめると、平安時代の建築様式の粋を集めた本堂があります。 終戦直後にご本尊を本坊に安置し、旧本堂を解体して現在の本堂は昭和49年(1974年)に完成しました。
本堂内には、本尊の聖観音像をはじめ観音菩薩などたくさんの仏像が安置されています。その中の「木造阿弥陀如来坐像」(市指定文化財)は像高29cmの寄木造りで、小さいながら端正典雅な仏像で室町時代の作です。

金銅五鈷杵
また鋳造製の鎌倉時代の密教修行の仏具「金銅五鈷杵(こんどうごこしょ)」(市指定文化財)があります。
「慈眼橋」=「福寿橋」
清水寺管長大西良慶(おおにしりょうけい)さんが、三瀧寺にお参りされた際に、行きは「観音さまの慈悲の目で」帰りは「福があつまるように」と一つの橋に二つの名前が付けられました。大西良慶さんは、鹿児島県に生まれた日本初の五つ子の名付け親としても有名です。
鐘楼
昔の鐘は第二次世界大戦中に供出したため終戦後すぐに現在の鐘を鋳造しました。当時は材料の品質が悪くヒビが入っています。それを鋳造した梵鐘屋が、「現在は良い材料があるので、無償で新しく鋳造したい」と申し出がありましたが、ヒビも当時を知る歴史的な意味があると思われるので再鋳造せずに現在に至っています。
鎮守堂及び三鬼権現堂
文政9年(1826年)に国泰寺十七世 猛山勇實の弟子であった明憚(みょうぜん)がわずか15歳で三滝山に入山し、その後明治17年(1884年)まで50数年間を通じて本堂の再建、庫裡鐘堂の建立等により三瀧観音(龍泉寺)を再興しました。
これを引き継ぎ宮島弥山で修行して徳を得た国廣(くにひろ)四鬼神(よきじん)(備後の生まれで明治37年没)が入山して、山手川に三滝橋を掛け、鐘堂を再建、さらに現在の位置に三鬼権現堂も再建し政府所有の上地林(じょうちりん)の返還を願い出る等を行ったので、徳が高いことから信者たちが四鬼神と師を呼んで尊敬しました。国廣四鬼神の弟子であった佐藤要憲(ようけん)(元治2年に豊後で出生)は師の遺志を受けて本堂の修築、鎮守堂や毘沙門堂(大正時代の大水害で流出し現存していない)を再建し、参道の改築、保管林の設定や照明用電灯の敷設を行って三瀧寺の風貌を一新しました。現在でも本堂(観音堂)のみならず三鬼堂や鎮守堂にも沢山の人たちがお参りをしています。
六角堂
このお堂は弘法大師の千五百年の御遠忌(三十三回忌以上の遠い法会)の記念事業として建設されました。三瀧寺にお参りする人たちには高齢者が多く、本堂にたどり着くまで登り坂が続くので、中ほどで休憩をする場所としても役立っています。
茶堂(さどう)と補陀落の庭
この敷地内には普段は入れませんが正月三が日ともみじ祭り(11月第三日曜日)のみは三瀧寺にお参りをする人に解放され、お茶が振舞われます。これは慈善
の精神による催しで、30年以上前から行われており、皆様から頂いた浄財はすべてカンボジアの人たちに贈っています。茶堂は昭和50年代初期に建てられましたが、「補陀落の庭」はそれより早く昭和30年代後半に庭師重森三玲氏の設計で完成しました。「補陀落」は観音様の浄土(インドではポータラカと呼びこの音から「ほだらく」と漢字を当てた)の意味で、三瀧寺のご本尊が観音様であることから「補陀落の庭」と名付けました。
この茶堂に宿泊されたお客様には有名なダライ・ラマ法王十四世がおられます。
本坊
今の本坊は、戦後間もない昭和22年(1947年)に着工しました。建設資材も乏しい時代で広島市長が先頭に立ち、多数の広島市民が建設に協力して約1年で完成しました。当時は被爆直後であったため、近隣の人たちが集まる場所として使われました。本坊は完成後約60年を経過して老朽化しており、大同4年(809年)の三瀧寺開創から1200年を経過する平成21年(2009年)を目標に改築する予定です。

三瀧寺は大同4年(809年)弘法大師が唐からの帰途に安芸国を巡り、この地三滝を聖地と定め「正観示現」の梵字を天然石に刻み、岩窟に安置したところに始まると伝えられています。
その後、文政9年(1826年)「明憚(みょうぜん)」が三滝山へ入山し、龍泉寺を開基するまで千年余り霊験あらたかということで参拝者が絶えることはなかったと言われています。残念ながら度重なる土石流により記録が紛失したためにこの間の事情は分かりません。
「明憚」は明治17年(1884年)に死去するまでの60年間、鎮守堂、鐘堂の建立に努めました。
その「明憚」の後を受け「四鬼神(よきじん)」が宮島の弥山より来往し、三鬼堂を建立し、同寺の降盛に貢献しました。師は大変徳の高い人だったと伝えられています。
「四鬼神」は明治37年(1904年)に遷化し、弟子の「要憲(ようけん)」がその意志を受けて諸堂の再築再建に努めました。三瀧寺を特徴づけている三十三体の摩崖仏観音像は江戸時代初期に彫られ、四国八十八ヶ所の本尊を模した石仏は「要憲」の時代に作られました。
現在の佐藤元宣住職は「要憲」の孫にあたられます。
三瀧寺はかって「三つの滝に幾夜うたれて龍泉寺、胸の仏の姿みるまで」と、ご詠歌に歌われていますが、いつの頃か「龍泉山・三瀧寺」と呼ばれるようになりました。
なお、「三滝町」の町名は昭和8年(1933年)の広島市の町名変更によってできたものです。
